2012年8月31日

棋界の水問題

※これは島研トークショー連載の第5回です。先行記事は下記リンクより(文中敬称略)。
第1回「島研で幼児化」第2回「学びのキングマンション」第3回「一人称を間違えると大変」
第4回「ちっとも話が進まない」



<5>

あなたの目の前に、例えば水がある。
水はペットボトルに入っていて、横にはグラス。
あなたはとてものどが渇いている。
あなたはグラスに水を注いだ。
さてその量は、いかほど?


いま森内が少しだけ前傾になり、この日初めてペットボトルを手に取ると、もう片方の手をグラスに添えて水を注いだ。その量はほんのちょびっとで、目測およそ1.5センチで、森内は注いだ1.5センチの水を一気にくっと全部飲むと、前傾姿勢を元に戻して満足そうに背もたれに身体を預けたのだった。


それは私にとって今回のトークショー、一番の衝撃であった。
飲む分しか、注がない。
その飲む分が、差し当たり1.5センチ。
それを全部飲む。
飲み終わっても、足さない。
後々また注ぐやもしれぬが、今は足さない。今は満足している。


これすなわち、なんという合理性であろうか。
もし私だったらとりあえず適当に、何も考えずに注いで、のどの渇きに任せ一気に飲む。一気に飲むとはいえ、全部は飲みきれなくて半端な量を残す。残された水はどんどんぬるくなり、空気に触れ雑菌とかも繁殖する。その雑菌に、例えば風邪の菌がいたらあっという間に発病し、なおかつ周囲の人々に撒き散らす、私はそういう人間だ。私にはとにかく、無駄が多い。


その無駄の多さも時には味となろうが、そんなことは稀なので無駄ばかり目立つ。この連載の前回分でも、将棋の話に紛れ込ませて野球のことばかり書いていた。ブログタイトル『気が散る前に。』に偽りなく、書いてるそばから気が散っていて、なんつー無駄話と思いつつ、やめられない。これは生まれ持っての性質なので、おそらく一生、治らない。たぶんピッチャーやっても完投できない。この一文も無駄と知りつつ入れてしまう。


そんな私の目に森内は、生ける砂時計のごとく映るのだった。
大きなのっぽの砂時計、例えば3分計れる砂時計はそれ以上は計らない。けれど計り終えた後もなお、そのフォルムでもって、見る者の目を楽しませたりする。電池もいらない。砂時計には、無駄がない。


森内は自分の飲みたい量が1.5センチと瞬時に判断した。
その判断が意識的だったとしても、また無意識の行動記憶であったとしても、とにかくすげえ、と私は思った。


すげえの思いを活かして、私は羽生のグラスにも目をやった。
羽生は8分目まで水を入れていた。佐藤はどうか。佐藤のグラスにはきっかり半分の水が、そして島は、ペットボトルに手を付けておらず、つまりグラスは空っぽであった。


そうなってくると、私にはそれら水の量が各々の棋風に思えてきて、羽生の8分目というのはいかにもオールラウンダーであり、佐藤の・はんぶん・しかも・きっかり・という量を思うに「きっかり」の辺りが変態系であり、島の空っぽというのもまた、島独特の美学に思えるのだった。


そして飲む分しか注がぬ森内のその姿勢は、長時間戦の強さそのものに思えた。
以前別の講演会で森内はこんな風に言っていた、「自分が長時間戦に強いのは準備するのが好きだからかもしれない」。
1.5センチの水は己の身体への、準備のようなものかもしれない。
そして過去の対局中継を思い出してみても、森内のグラスには常に少しの水である。闘いへの身体の準備、興奮をコントロールするための1.5センチ――
けれども飲む分しか注がないというのは、飲むたびに注がねばならぬという困った面もはらんでいたりして、その少し不器用な感じも森内俊之そのものだと、私は胸打たれたのだった。


3分計った砂時計は、いつか引っくり返さなければならぬ。





お茶会ラスト2
前回分より、森のお茶会。左から羽生狼、森内きこり、佐藤フクロウ、シマリス、のつもりだったが、
これはきこりと言うより木では…まあいいけど……。






<つづく>
※すべて個人の感想です。感じたことと事実とは一切関係ありません。